私はまだ修行半ばの身ではあるが、標題について書こうと思う。
最近のネット上で見かける危うい人達を見て、いつか書かねばならぬと思っていたのだが、随分と遅れてしまった。

 例えば、仮想の人格を構築して普通の人間関係以上に優先する人達が居る。
また、日常的に呪術に耽溺し、呪詛を投げ合う人達が居る。
占いに耽溺し、自分で意思決定ができなくなる人達が居る。
この様な人達の話しを聞けば、「普通の人」が感じるのは危うさだろう。日常と非日常が入り交じる狂気を感じるからだ。

 結論から言えば、日常とオカルトの場は厳に区別すべきである。例外は無い。
これは術者の心身の健康を保ち、社会生活を維持し、引いてはより良い成果を得るために必要な事だ。
オカルトの神秘体験はとても魅力的だ。日常を忘れ、それだけに没入したいと思わせる何かがある。また瞑想による気づきを日常に活かしたいと思うこともあるだろう。
しかし、内的世界から日常に、その体験を引きずるとどうなるだろうか。
まず日常世界を内的体験の眼鏡で見てしまうだろう。それはいささか刺激的で、特別な自分という物を感じさせてくれる。自分だけの特別な世界を得たように感じるだろう。それを与えてくれる内的体験の価値が高まる。
次にやってくるのは、日常に対する失望である。内的体験での主導権は日常に無い。社会や他人や自然は思い通りにはならない。そうなれば、更に都合の良い内的体験にはまり込むだろう。
この状態が続けば、自然とよそよそしくなり、周りは違和感を感じるだろう。違和感は軋轢となり、さらに日常に対する失望を招く。それは更に内的世界に入り浸る言い訳になる。
このサイクルが続けば、様々な害が現れる。人によっては内的世界と日常の落差から心身の健康を害するだろうし、人によっては社会生活に支障を来すだろう。そして逃避の場となったオカルトは必ず失敗する。
この様な事態を避けるためには、日常とオカルトの場は厳に区別すべきである。

 ではその区別をどのように行うか。
まずは形から入る方法だ。理想的なのは、オカルトのための専用部屋を作る事だ。書庫と儀式場が確保出来れば尚良い。しかしそれは現実的では無い。
その場合、W.E.バトラーは著書「魔法修行」の中でこう述べている。

  『君好みの象徴的図像を小さな額に入れて机の上に立て、カバーを用意して、瞑想が終わったときにはその額を掛けておくことだ。』(魔法修行 P25)

 カバーが上がるとその部屋は儀式場となり、カバーを下ろせばそこは日常の空間となる。小さな事のようだが、これで十分だ。余りに準備に時間が必要では本末転倒になってしまう。
もう一つはオープニングとエンディングの儀式を行うことだ。西洋魔術師の場合、何らかの儀式を行う場合には、カバラ十字や五芒星小儀礼によって場の切り替えを行う。一種のルーティーンと考えても良い。
これらの方法によってより深く、より安全に、より高い純度で内的世界を訪れることが出来るようになる。

 もしあなたが特定の流派に属して無い、独立した術者であっても、これらの方法は有用だろう。西洋的な方法は嫌だと言う場合には自分なりの方法を作ると良い。


  • 儀式場を整えるなどの外的なスイッチ
  • オープニングエンディングの内的なスイッチ

これらを作る事で、より質の高い日常とオカルトの生活を送ることが出来るようになるだろう。

※参考:「魔法修行―カバラの秘法伝授」W.E.バトラー (著), 大沼 忠弘 (翻訳) 平河出版社